総武本線および市川・国府台の地理・歴史などを、わかりやすく解説してゆきます!
旅行初心者の方にも、やさしく解説してゆきます!
今回は、市川駅へ
今回の房総半島の旅は、船橋駅を出て総武本線で徐々に東京方面へと向かってゆく行程となります。
そして、市川駅に至ります。
千葉駅→稲毛駅→新検見川駅→幕張駅→津田沼駅→船橋駅→市川駅→(江戸川)→新小岩駅→(荒川)→平井駅→亀戸駅→錦糸町駅→両国駅→(隅田川)→浅草橋駅→秋葉原駅
※上記は全ての駅ではなく、スペースの都合上筆者が独断でピックアップしたもの
※錦糸町駅からは「支線」扱いであり、運転系統は「中央・総武線」となる
船橋駅を出て、市川駅へ
船橋駅(千葉県船橋市)を出ると、市川方面へと向かってゆきます。
また、久しぶりの東京都も徐々に近くなってゆきます。
やがて
- 市川駅(千葉県市川市)
に到着します。
下総国の国府があった市川市
千葉県市川市は、元々は下総国の国府があった場所ですね。
「下総国」とは
下総国は、房総半島の北側<r(つまり、千葉県北部)にあたる地域になります。
その下総国の中心地である国府があったため、この後紹介する国府台という地域が存在します。
「国府」とは
国府は、その国における政治の中心地です。
現代でいう、県庁などに該当します。
国とは、奈良時代の律令制におけるエリア分けであり、現代の都道府県に該当します。
ただし、千葉県では昔は以下の3つの国が存在しました。
- 下総国:千葉県北部
- 上総国:千葉県中部
- 安房国:千葉県南部
下総 の方が「上」、上総の方が「下」に注意
ここで注意したいのが、
- 下総の方が地図上は「上」であり、
- 上総の方が地図上は「下」にある
ので、その辺りは注意してくださいね。
なぜ上下が逆なのかについては、以下の記事(のだいたい真ん中あたり)でもわかりやすく解説しているので、ご覧ください。

下総国の「国分寺」も存在した
また、市川市には下総国の国分寺もありました(現在も下総国分寺があります)。
国分寺は、奈良時代の聖武天皇の勅願によって建てられたものです。
勅願とは、天皇直々のお願いのことをいいます。
市川の「国府台」
先述の通り、市川は下総国の国府があった場所であり、それにちなんで国府台という場所が、江戸川のほとりにあります。
国府台は、かつて戦国時代、
- 後北条氏
- 里見氏
が戦った場所でもあります。
後北条氏とは
後北条氏は、戦国時代に神奈川県の小田原を拠点とし、関東から伊豆半島あたりを支配した一族です。
初代は、北条早雲という人物です。
名前こそ北条となっていますが、実は鎌倉幕府の執権だった北条氏とは、血縁関係はありません。
それは、単に「北条氏」というネームバリューが高いから(有名だから)、という理由で北条氏を名乗っていただけとなります。
そのため、鎌倉幕府の執権だった北条氏と区別するために、後北条氏と呼ばれるわけです。
後北条氏は、元々は伊勢氏を名乗っていたのでした。
里見氏とは
里見氏は、戦国時代に房総半島一帯を支配した一族です。
元々は、房総半島南部の、館山を支配していました。
里見氏については、こちらの記事(当サイト)でも解説しているので、ご覧ください。
第二次国府台合戦
戦国時代に、後北条氏はとにかく関東地方で勢いづいていて、ついに房総半島まで攻め込まんとしていました。
それを迎え撃ったのが、里見氏ということでした。
そして、市川の国府台で激戦となりました(第二次国府台合戦)。
里見氏の敗北、敗因は「油断」
しかしこの戦いでは里見氏の敗北となります。
その原因は、里見氏の油断です。
後北条氏は敗北したとみせかけて、わざと後退したのでした。
これに騙されて勘違いした里見氏が、余裕ぶっこいて酒に酔っぱらっていたところを、後北条氏の猛攻撃を食らって敗北したのでした。
敗北により、下総国の支配を後北条氏へ譲ることに
この敗北を受けて、里見氏は下総国の支配を後北条氏に許してしまうことになります。
これによって里見氏は上総国と安房国のみ(つまり、千葉県の南2/3の地域のみ)の支配となったわけです。
小田原攻めに遅れる 罰として里見氏は上総国まで失う
しかし、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めのときに、里見氏は遅れて駆けつけてしまったのでした。
そのため(一説によれば、私闘を禁じる惣無事令違反とも)、秀吉の怒りを買い、上総国まで没収されてしまいました。
そして上総国は、(後に関東地方の支配を任され江戸幕府を開くことになる)徳川家康に対して、差し出すことになるのでした。
戦国時代では、敵の敵は味方になります。
そのため、後北条氏(=里見氏の敵)の敵である豊臣秀吉は(里見氏からすれば)味方にあたるわけです。
その味方が、小田原を攻め落とそうとする時に遅れてかけつけたため、秀吉の怒りを買ったというわけですね。
しかし(先述の通り、後北条氏の領土となっていた)下総国も、小田原で後北条氏が滅亡したことで、秀吉に没収されることとなってしまいました。
真間の手児奈ちゃんの伝説
市川の国府台には、真間の手児奈ちゃんの伝説があります。
市川の真間(現在の市川駅のやや北で、京成本線・市川真間駅があるあたり)に手児奈ちゃんという、それはそれは非常に可愛いお嬢さんがいました。
ところが、あまりにもモテすぎて求婚されナンパされまくり、手児奈ちゃんをめぐって男たちは争うようになります。
これを見て、手児奈ちゃんは心を痛めるようになります。
「私の心は、いくつにも分かつことができます。
しかし私の体は一つしかありません。
私がいなくなれば、男の人達は争わずに済むのです。」
そう言って手児奈ちゃんは水に飛び込んでしまいました。
この辺りの恋愛バランスは複雑です。
モテは一極集中するといわれ、一人の異性からモテる人は魅力的ですから、その他大勢の異性からもモテることにもなるのです。
それが現代の自由恋愛婚活においても複雑な構造をもたらす要因にもなっています。
以下の記事(の後半あたり)で、現代の婚活の男女のアンバランスについて詳しく解説していますので、ご覧ください。

次回は、江戸川を渡り、東京都へ
市川駅を出ると、次は江戸川を渡り、東京都に入ります!ゴールの秋葉原は、もうすぐです。
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